再録:2026年1月5日
| 夏 に 想 う こ と |
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2016 10 -21 記 松岡 幸雄 「今日も、暑いですね」と挨拶を交わしていた8月。アッという間に過ぎ去ったように も思いますが、毎年、夏になると想うことがあります。それは「シベリア抑留」 です。 戦後70年、天皇皇后両陛下が、激戦地だった南太平洋のパラオ諸島ペリリュー島を 慰霊に訪れ、「・・・太平洋に浮かぶ美しい島々で、このような悲しい歴史があったこ とを、私どもは決して忘れてはならないと思います。」と話されたことと映像が強く印 象に残っています。 ★ 7月末、都内のライブで・・・ 地下2階のライブハウス。13人のバンドマン。大音響。あの「風と共に去りぬ」の タラのテーマ、グレン・ミラーの名曲・・・軽快で懐かしく、うっとりとした曲の数々 、そこに、私の知人でバンドマスターの佐野啓さんの作曲「シベリア」も組み込まれて いました。どんな想いを込めて作曲したのか知りたいと真剣に聞きました。極寒・重労 働・飢餓の「叫び・激情」を連想した後、徐々に「静かな祈り」へと。私の父を思いな がら聞きました。休憩時に彼から初めて、彼の父親は高知県出身で、シベリア抑留の体 験をされて82歳まで生きたと知りました。 「3年間抑留されていた。帰って来た時は栄養失調で顔がパンパンに腫れていて子供 たちは誰だかわからなくて怖がって逃げていた。」作曲に込めた思いは?「人間はどん な状況でも希望を持てば生きていける。3拍子(ジンタ)で表現しました。どんな苦難の 中でも楽しみは見つけられるものだと言うところはサルサのリズムで作曲し、全体はホ ールトンスケールと言う難しい音階を使って「苦しさ」を表現しました」と。 プロのトランぺッターの音色が、今でも耳に残っています。 ★ 8月、市内の講演会で・・・ 9歳の時に一家7人で、中国の東北部の「旧満州国開拓団」に協力するよう説得を受 けて満州に渡った方の講演でした。農業で生計を立てていた中国の農民を強制排除した 土地に「入植」した(こうした事実を「侵略」と認めない考えを批判していました)そ の1年半後、旧ソ連軍の「侵攻」で大混乱の様子を詳しく聞くことが出来ました。関東 軍の上層幹部らは満蒙開拓団(約27万人)を守ることなく、早々に日本に引き上げた ため、取り残された女性と子供らは必死でした。虐殺・略奪・強姦などが頻発し、赤ち ゃんは中国人に渡して生き延びる方法を取らざるを得なかった。昼間は見つかるので夜 中に歩いた。食べる物がなく空腹だった。道端にはもう歩けない人々が弱々しく座り込 んでいるのを見捨てながら・・・。 ★ 新聞・体験記・テレビで・・・ ◎新聞の特集記事の隅に「旧ソ連に抑留され死亡された方で、新たに34人の個人が 特定された」との記事がありました。以前に公表されたのを含めると、やっと40,5 80人の個人が特定できましたが、しかし未だに約2万人は不明のままが現実です。( 抑留者は約60万人) ◎「シベリア抑留の記録」の1冊を読みました。 「関東軍総司令部が、1945年8月29日にソ連側に提出した陳情書では、捕虜とな った日本軍人の処遇について『(内地への)帰還までの間、極力貴軍の経営に協力する 如くお使い願いたい』」と。しかも「近衛文麿らが7月に作成した『和平交渉の要綱』 に・・・労務提供するとされていた」と。驚くべき「裏切り」だった訳です。 1993年に来日したエリツイン大統領は「ロシア政府・国民を代表し、このような 非人間的な行為を謝罪する」と述べた、と。 これらの資料は、ソ連崩壊後に、ソ連側の公文書から発見されたが、改めて大きなシ ョックと強い怒りを感じました。(小熊英二「生きて帰ってきた男」岩波新書より) ◎8月14日、NHKスペシャル「村人は満州に送られた」で、赤裸々に真実の一端 が放映されていました。(略) ★ 千鳥ヶ淵で、ご冥福を祈る
私の父は96歳まで北海道で生き延びましたが、「抑留生活4年余り、九死に一生を 得て生還する」と書き残しただけなので、「国家による大規模かつ組織的な拉致の 実態 解明」を切望しつつ夏を過ごしました。 |